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『千子村正 蜻蛉切 双騎出陣』考察とも言えない感想 これは…刀ミュの最高傑作では…?

千子村正蜻蛉切双騎出陣の感想です。
ネタバレあります。

私は原作ゲームは現在プレイしておりません。
刀ミュも三百年、葵咲本紀については1回見たことがあるくらいです。
なので、的外れな部分はあると思いますので、ご容赦ください。

 

 

1部

気が狂いました。
ずっとやってほしいと願っていたものが、期待値を遥かに超えて神作として投下されれば、そりゃ気が狂うってもんです。
脚本もよければ、曲も歌詞もいいし、歌が死ぬほどうまい上に、ビジュアルがもう村正と蜻蛉切そのまんまっていう…なんだこの奇跡。

私の最推しは別の刀ですが、そんな私が発狂してたんだから、村正派推しの方々は本当に死屍累々だったのではなかろうか。
心配になるくらい神作でした。

考察をふせったーに書き殴ってたんですが、
千秋楽見直したら見当違いなことも多かったので、
考察はきっと他の方がやってくれるだろうし、私は私が悶絶した箇所の感想を書いていこうと思います。

 

全体

日が暮れて訪れた逢魔ヶ時、全ての境界が曖昧になる刻限から始まって、最後に朝が来て終わる。

根底の構成がまず、すごく綺麗でした。

 

内と外を隔てる境界の窓が、逢魔ヶ時にその境界を失ったんだよ…という説得力を持たせた上で、
夕暮れから夜に移る景色を血のようだと村正が自らの妖刀伝説を想起するきっかけにもしている。
そして最後はこの夜が明けて、やってきた新しい朝、再び境界を分かつために二振りが別々の方向へ足を踏み出す。
でもこの二振りはもう、迷いの窓、悟りの窓、別々の窓の中に立っていた二振りではなく、お互いが迷いと悟りを共に抱えあう二振りである…

という、夜→朝のこの根本の円環の上に、万華鏡という円夜→朝という円を重ねて、最高にシンプルで無駄のない円環(劇場も円環!)作り出していて、だからこそ美しかった。


実際ラストシーンは仏教の極楽浄土のイメージだと思うんですけど、本当に宗教画のように美しいラストでした。

最後の四角い窓と丸い窓が重なって組み合って、千子村正蜻蛉切双騎出陣とロゴが出るとこも、

あああああ、あのロゴそういう意味!?

と、パズルピースがハマるような気持ちの良い構成でした。


考えるな感じろ!で細部の辻褄があわない話はあんまり好きではないんですが、
この双騎出陣は、感じたままでいい!という作りにしてあるものの、
土台が精巧に作られてるので、考えても考えても「ここ整合性取れてないな」と気持ち悪さがあまりなくて、味わい深い作品になっているのがありがたかったです。

 

万華鏡の中に迷い込んだ村正を見て
蜻蛉切が「万の華うつす鏡…」と言ったあたりでステアラの客席が回り始めるのも演出最高でしたね。
個人的にはステアラ使わなくてもできたじゃん!もうちょいチケ代やすくしてくれよぅ!もっとたくさん行きたかった!と思ってますが、

ステアラ=万華鏡
観客=万の華

つまり最後に月にうつされて咲き乱れる華々は舞台の中だけではなく、会場一面が咲き乱れる華で、その中を二振りが歩いていく…
って演出なんだとしたら、にくいですね。
我々も二振りの門出を言祝ぐ一輪だなんて、光栄すぎる。

 

なお、私は蜻蛉切は村正作ではなく、村正派の藤原正真作と思って観てたんですが、ミュでは蜻蛉切村正作という扱いなんですね。

これ、原作ゲームも蜻蛉切は村正作の扱いだったんですね。知りませんでした💦

刀剣乱舞無双は藤原正真作になってたから、原作ゲームもそうなんだと思ってた汗💦

失礼しました🙏

ということで、蜻蛉切は村正作という前提での感想になってます。

 

 

窓のシーン

最初から歌。
しかもめちゃ難しそうな歌を、ハモる声がもう美しすぎて、最初の一声から没入させてくれるのありがてぇ🙏
こういう圧倒的歌唱力で酔わせるミュージカルの刀ミュ、ずっと見たかったです。
村正双騎やってほしいと言い続けてた頃、ずっと

この二人なら「レミゼ」風でもいけるでしょ。台詞なしで歌聞きたい!

と言い続けてたので、本当に嬉しい舞台でした。


この最初のやり取り、禅問答みたいでとても好き。
「一面の壁の、欠けた部分」って表現。
なんて詩的で、真理な言葉だろう。
この窓の内側は蜻蛉切、村正の心。
窓はその中から外界と関わろうと開いた心の有り様の象徴のように私は捉えていました。
同時に、彼らが外界をどう見ているかの象徴でもあるのかなと。


やがて逢魔が刻が訪れ、同じ村正の蜻蛉切と村正の境界が曖昧になると、

重なった窓の中に、村正は万華鏡を見る。

 

これって、村正が「千子村正作の刀剣の集合体」で「万の華」であるなら、

村正にとって蜻蛉切「鏡」ってことなのかなと。

 

後のシーンなどで「月」を鏡としているところがあったり、

ステアラ全体を万華鏡とした時に、円形=鏡としてるので。

 

自分一人では自分を見ることはできないが、

同じ「村正」、自分自身でもある蜻蛉切を覗き込んだ時に、映る自分を見て、自分の輪郭を認識できるようになる…という意味合いもあるのかなと思ったり。

でもただ蜻蛉切を見るだけではなく、蜻蛉切の中に「万の華」があるときでないと、だめなんですよね。

つまり最初のシーンではだめで、四角窓と丸窓が重なる逢魔が刻だから、万華鏡が現れたということなんでしょう。

 

この細かいとこまで説明ついちゃう感じの脚本が、すんごい好きです。

見当外れだったら申し訳ないですけど。

 

 

万華鏡のシーン

万華鏡の中に村正を見つけた蜻蛉切のソロのシーン。

今回蜻蛉切のソロは「円環」についての歌や台詞が多いですね。

 

なんでここで「無から有が生まれ」と歌うのか。ずっと脈絡がよくわからなかった。

 

でも、万華鏡の円環に、蜻蛉切は森羅万象の円環を見たってことなのかな。

万華鏡は同じ模様は二度と作れないと聞いたことがあるので、

一瞬一瞬で華が生まれては消える様を円環と捉えたと考えるのはおかしなことではないですね。

 

あとは、村正が「万の華」なら、蜻蛉切はやっぱり「鏡」で、

ここで蜻蛉切が円環について歌うことで、回るステージと相まって

生まれた万華鏡を回しながら覗き込むことを示してもいるのかなと、何回か見ていてやっと理解。

 

鏡が万華鏡を覗き込むのは物理的に不可能ですけど、

万華鏡の構造を考えると、鏡からは華を見ることはできるし、回ることもできるので、覗き込んだのは我々観客で、蜻蛉切は覗き込んだと思い込んでいるだけで、自分自身もまた万華鏡の「鏡」という一部だったと考えても良いかもですね。

解釈は自由ですし。

 

 

森のシーン

歌詞の通り、おそらく村正の心の中の森のシーン。


『かざぐるま』を歌う村正が美しすぎて
慈愛の眼差しがもう菩薩…通り越して天女みたいでした。

 

だからこそ、次の「無常の風は時を選ばず」の後の、慟哭みたいなソロからの彼岸花へ変容していく姿との対比が悲痛で。

もっくんの歌唱力がすごすぎて鳥肌がとまらなかった。

 

生まれたときは千手観音の象徴である蓮の花のように清廉で慈しみに満ちた存在だったのに、血を吸って毒々しい彼岸花へ変わってしまう。変えられてしまう。

 

でも、彼岸花を見て「まるで」と村正を重ねる蜻蛉切の歌、

歌詞が

毒々しくも美しき華

妖しくも麗しき華

なんですよね。

蜻蛉切は村正のことをやっぱきれいだと思ってるわけね、ふーん😊

ちょっとニコニコしましたw

 

 

で、問題はその後。

ダンサーさんを背負って千手観音の姿から、

村正の紋のようにフォームが変わるところ。

あれが本当に村正の紋を象っているなら、


あの、これ…私の思い違いでなければ、村正の表情とかを併せて考えると、

千子村正の紋を、刀ミュさんは

ただの千手観音イメージではなく、
千手観音モチーフの彼岸花イメージである

と解釈してるってことです?????

 

「脱ぎまショウか」の解釈にしても、この紋にしても
その「最初からそういう設定だったんですよ」みたいな顔して爆弾投下してくるのなんなん???

もしや本当に公式さんがそこまで最初から設定考えてたってことなの???

ミュは審神者の情緒殺しにきてるんですか?

ありがとうございます!もっとお願いします!

 

 

糸のシーン

蜻蛉切と糸のシーン。

ここはわかりやすいので、考察すべきことはあんまりないですが、

このシーンの最後でスクリーンが割れて三日月の舞台が出る時に、

スクリーンの真ん中の糸が横糸を得て布になってきていることに気づいて、

演出細かっ!って思いました。

 

絡みついた糸がやがて布になって…

次の三日月を背に村正が「脱ぎまショウ」と歌うシーンにつながるの、細かい。

 

 

三日月のシーン 村正のソロ

え、「脱ぎまショウか」って実はそういう意味だったの!?!?!?

ってぶん殴っていただいたシーンでした。

村正ファン、ここで一回全員死んだんじゃないでしょうか。

 

いやでも、これを見た上でゲームに立ち戻ったとき、

他でもない村正が「脱ぎたがる」という性質を持つのって、最初からこういう設定、意味だったのか…?と気づいてしまったら

「また~村正すぐ脱ぎたがるんだから~」って微笑ましく見てた光景が、なんも笑えなくなった瞬間でした。

 

このシーンは演出もすごく細かいですね。

三日月を背にして「脱ぎまショウ」と歌うところまでは、村正の足元に映るのは三日月なのに、
「わかっていマス」と妖刀の自分を諦めて受け入れたら、足元の月が満月に変わるの、細かい。


足元の円は鏡(万華鏡)で、本心を歌っている時は正しく背後の三日月が映っている。

でも、村正が偽りの妖刀伝説を受け入れた瞬間に、鏡には映るはずのない満月(偽りの姿)が映る、

ということなのかな?

 

三日月のシーン 蜻蛉切の独白

村正に手を伸ばし、満月の映る鏡に蜻蛉切が足を乗せると、水の落ちる音が響く。

その後の蜻蛉切のソロで、鏡が月ではなく、水面に変わる。

 

ここもまた、蜻蛉切は「円環」の話をしてました。

 

ここは蜻蛉切の修行の手紙にも通ずる内容になっていましたが、

しかし、ここ前後の脈絡が私にはわからなかった。

 


「始まりと終わり」という言葉と、水面と月という舞台から、

心覚を連想させようとしてるのかなと思うんです。

が、心覚…未だによくわからないので私の解釈はここで止まってます。

 

水清ければ月宿る…はずなんですが、

蜻蛉切の足元の水面に月が映らないんですよね。


ましてや遡行軍切った後、水面は血の色をしています。


太平の世の刀である水心子と違い、戦国の刀剣である蜻蛉切の水は

「月が映るほど清くはない(人を斬ってきた刀剣である)」

ということを現しているのか…わからん。


村正の「袖振り合うも他生の縁」「因と縁を背負うのは〜」の発言の意味も、

最初は「蜻蛉切本多忠勝の槍という立派な物語をもっているけど、ワタシは違う」という線引きなのかなと思っていました。

でも村正の言い方や、蜻蛉切の手の甲を顔にやる仕草が血の匂いを確かめるようにも、血臭から鼻を押さえるようにも見えるので、

「何のためであれ、私と同じように多くの人を殺した刀剣であることに変わりはない」

と言ってるシーンっぽいですが…。

 

ここ、わかる方いたら教えてください。

 

三日月のシーン 妖刀村正の殺陣

村正のもっくんの演技、すごかったですね。

妖刀村正としての狂気のシーンだと思っていたんですが、配信でちゃんと表情や仕草まではっきり見えた時に、

妖刀村正が誕生して刀剣男士として顕現するまでを時系列にあらわしてるんだと感じました(違ったらごめんなさい)

 

村正は最初「なぜこんなことをしてるかわからない」みたいな表情で切っている。

敵を刺したまま引きずってる時、何かを振り払うような仕草をする。

これはおそらく「不吉な刀」と言われ始めた頃。そんな事実はないのにそのように振る舞い始める自分に困惑している。

払っているのはおそらくまとわりついてくる糸でしょう。

 

その後刀身に布が掛けられる。

糸がやがて布になり、人間の村正への評価が完全に「村正は妖刀」となってしまった。

そうすると村正自身の認識も「自分は妖刀である」に変わってしまう。

そこからは取り憑かれたような妖刀村正としての狂気の殺陣。

 

でも薙刀を刺したあとは、我に返ってるように見えます。

これが「実は村正が妖刀というのは創作」ということが後世でわかった時なのかなと。

 

でも世間一般の認識は未だに「妖刀村正」であるから、村正はそうあらねばと改めて薙刀を自分の意志で掴み直し、「妖刀村正」になろうと刀を振るう。

 

この薙刀握り直した後、村正が修羅の顔をしていてほんとにかっこいいなと、私は観てました。

おまえには人の心がないんか?と言われそうですがw

いやでもね、本人が覚悟を決めた(と私は感じた)のなら、それを「かわいそうだ」と思うのは侮辱じゃないかなと思ってしまって。

そうせざるを得なかったとしても、本人が「これは自分の意志」と思うなら、思い込みたいなら、その覚悟や強さに、私は敬意を払いたい。

それくらい、薙刀を握り直す時の村正の目は鬼気迫るものがありました。

 

話を戻します。

でもそれは纏わされた説話であるから、あの森の中で菩薩のようだった本来の村正とは相容れない。

だから薙刀を投げ捨てた後に怯えたような、信じられないような顔をする。


か~ら~の、
これらの自分を受け入れて飲み込むしかなかった村正の血を履くような顕現台詞

 

 

あの……もう顕現台詞も平常心で聞けなくなるんですけど、ミュはどれだけ審神者のメンタルめった刺しにしてくるの?

 

こんな気持で三百年のときに顕現台詞を平然とした顔で言ってたのかおまえ…ってなっちゃうでしょうが!!!

 

 

歌合で、松井江が顕現時に肉体を持つ苦しみを歌っていた気がするんですが、

村正、貴方を顕現させてしまって本当にごめんなさいという気持ちでいっぱいになりました。

人間の業で、肉体と心を持たせたりしなければ、村正の苦しみはここまで明確には形にならなかったはず。

 

だからこの後の蜻蛉切の「俺も村正だ」は、そんな審神者のぐちゃぐちゃになった情緒も救ってくれる言葉でもありました。

 

このシーンの蜻蛉切、ずっと怯えたような顔をしているの、ものすごく好きなんですよね。

あの村正の姿を見て、それでも動じずに真正面から受け止めるのではなく、

村正の苦悩と狂気を目の当たりにして、あれだけ恐れおののいても、それでも尚「俺も村正だ」と村正へ迷いなく震えた手を伸ばすのが、ものすごくよかった。

 

 

繭のシーン

三日月のシーンから舞台が、

万華鏡→森→繭とコンテンポラリーダンスに導かれて移動していくところ。

 

蜻蛉切が村正作だとするなら、

彼らは元は同じ「千子村正」で、そこから分離してしまったのが蜻蛉切

分離してしまったから、蜻蛉切は村正であると自認しているのに、「本多忠勝の槍」という意識のほうが強くなってしまった完全別個体になっちゃってる。

だから物語の始め、「本多忠勝の槍」として自己完結し、悟りの窓の中から外を見る蜻蛉切と、謂れのない妖刀伝説に迷いの窓の中から外を見る村正というように、お互いが相手を完全に別のものと認識している。

村正も「違う者同士が同じものを見ることなど本来あり得ない」と言ってました。

 

けれど境界が曖昧になった万華鏡の中で、蜻蛉切がもう一度「千子村正」と同化し、その背負うものを目の当たりにした時、

それでも告げられた「俺も村正だ」の言葉は、万華鏡の奥、村正の心の森より更に奥の、糸で雁字搦めになった村正の本心に届いた

ってことでOKです?

 

 

ゲームの蜻蛉切は「俺は村正」とは発言してないと私は認識しているんですけど、

つまりこの舞台は、

ミュの蜻蛉切の村正への深い愛と、共に妖刀としての闇も背負いたいという強い覚悟があったから生まれた物語ってことであってます?

 

 

てぇてぇ…しか出てこないでしょ、こんなん。

気が狂う…。

 

 

村正の「違う者同士が同じものを見ることなど本来あり得ない」に対して、

蜻蛉切が出す答えが、
同じものが見られなくても、「開いた窓へ手を伸ばして体温を分かち合うことはできる」
なの、痺れました。


結局、蜻蛉切は自分は村正だといいながらも、妖刀のような狂気はみせない。

人間の蜻蛉切の認識が妖刀ではないので、それは仕方ないですよね。

つまり、どこまで行っても二振りは異なる存在ではある。


だけど、蜻蛉切が村正であることは(ミュにおいては)事実で、だから同じ闇の中、すぐ側に存在しているし、一緒にこの因縁を背負うことはできる。

ゲームの蜻蛉切が「村正の唯一の理解者」であるなら、ミュの蜻蛉切は「村正の運命共同体」になったわけですね。

 

村正もまた、同じ闇の中ですぐそばにいる蜻蛉切に気づいた時、言葉で伝えられるよりも、体感として、蜻蛉切が自分と同じ村正であると理解できたんじゃないでしょうか。


でもこれは、最初から同じ闇の中にいられたわけじゃなくて、蜻蛉切が「妖刀村正」の凄惨な闇や狂気から目を逸らさず手を伸ばし続けたからこそ、得られた結果なんですよね。

蜻蛉切、この物語の中でずっと村正に手を伸ばし続けてましたからね。

 

 

村正と同じように糸に雁字搦めになりながらも、同じ闇の中、「すぐ近くにいる」と、不安げな村正に蜻蛉切が歌いかけるところの歌が…

歌詞と旋律がまず最高、

加えて蜻蛉切の歌声がほんとに優しくて、

さらに村正がぽつりぽつりと蜻蛉切の歌声に応え始めた時の蜻蛉切の嬉しそうな表情、

憑き物が落ちたような「脱ぎまショウか」に「ああ」という返事、

そして賛美歌のような美しいデュエットに繋がっていく…

 


おまえらが村正双騎でみたかったのは、これだろ?わかってんだぜ?

 


ってボコボコに殴っていただいてる感じしました。

ありがとうございます。

この舞台作ってくれてほんとにありがとうございました。

幸せでした。

 

 

朝のシーン

村正の

朝日の中の無垢な表情、

「やっかいデスねぇ」の涙、

決然とした「ワタシは行きマス」、

全部が神々しかった。

 

もう村正は闇の中ではない、光の中を歩んでいく。

蜻蛉切がずっとそんな村正を慈愛の眼差しで見つめてるのも、もう…

 

 


生きててよかった〜〜〜〜😇
(語彙消えた)

 

 

 


確かパライソか心覚かなんかで蜻蛉切と村正が修行に行ったとちらっと話がありました。

なので、この「行きマス」は、二振りが再びお互いの境界線を取り戻すのと同時に、修行への旅立ちもあらわしていると思います。

 

そして二振りがそれぞれ修行の行き先を選んだ理由を、この「万の華〜」が補完する形になってるのもすごい。

 

そりゃこんな経験した後なら、修行はそこに行くでしょうね。

そしてあんな手紙を主に書くでしょうね。

…という物語にしてるのが……拍手止まりませんでした。

 

すごかった。

歌が圧巻だったし、脚本も演出もすごくよかった。

2023年の最後に、素晴らしいプレゼントをありがとうございました。

 

 

2部

2部、体感1分でしたね。

 

衣装フェチなので、衣装ごとに感想をば。

 

 

和風衣装

これはわりといつもどおりのライブ衣装でしたね。

肩布が村正は黒字に華やかな花がらなのに対して、蜻蛉切が紫に蝶なのが控えめで蜻蛉切らしくてどっちも似合ってて綺麗だった。


そしてあんまり見えないんだけど、村正の後ろ姿、超綺麗。

センターがレースのスカートみたいになっててめちゃかわいいかったです。

もっと後ろ姿見せてほしかった。

 

ふたりとも体格鍛えてきてくれたので、シルエットも美しかったです。

 

そして私は『約束の空』が大好きなのでニコニコしてしまった。

 

 

サンバ衣装

サンバがカワイイからもうそれだけでご馳走様なんですけど、

蜻蛉切がダンスで脚開く度に、最前列だと中見えるのでは…とすごくハラハラできてスリリングな体験をさせてくれた衣装でした。


蜻蛉切がピンクと紫で半分なのに、後から出てきた村正がピンクだけなの、1部を見た後だとウワー🥹てなりました。

 

大千秋楽で来年辰年!良いお年を!と、うさぎムーブで去っていく村正を見てて、

もしや大晦日を大千秋楽にしたのは、これをやりたかったからでは…?と思ってしまい、

ということは2024年末は大倶利伽羅か、小竜の新作公演きますか???????

と思わず真顔になりました。

 

どっちでも嬉しいけど、ぜひとも小竜を…っ

 


エナメルレザー衣装

これのお陰でこの曲の間、記憶がほぼないです。

 

村正のハーフグローブだけショッキングピンクなのも、

靴からスボン繋がってる上、ガーターなのもやばい。

 

でも蜻蛉切……。

蜻蛉切さんは、あの、モザイク掛けなくて大丈夫これ?


前から見ても腕とベスト一体型で肌見せないのに胸元だけスケスケレース、腰の布も右だけ前にかかるアシメでかっこいい!やば!てなったのに、

ターンすると背中は腰までばっくりスケスケレース!!!

センシティブすぎる…っ

しかも腕上げると腹みせできる仕様とか、デザインが天才の所業。

 

しかも太鼓の日はこの上にロングコート。


俺達の死が来た〜〜〜〜!!!

 

て感じでした。ありがとうございます。

ブロマイド売って。

普段ブロマイド買わないんですけど、このお洋服の蜻蛉切さんは買います。

 


スーツ衣装

最後がスーツなのがまたにくいですね。

今まで2部は必ず脱いできたのに、「脱いで魅せまショウ」まで歌っといて


村正!おまえが脱がないんかい!

 

て、すごく気持ちいい裏切り方をされました。

1部で脱いだから2部はもういいでしょ?ってことなんでしょうか。

 

村正は可愛く、蜻蛉切はフォーマルに寄せててかっこよかったです。

客降りの時、わざわざ上着脱いてくれる蜻蛉切様の主サービス徹底してて好き(暑いだけかもしれないけど)

蜻蛉切のあの体格じゃ何着てもかっこよくてずるい。

 

 

 

Impulse、生で見られて幸せでした。


二人共ほぼ視線が合わせないで歌ってましたね。

らぶフェスのときもそうだったような気がするんで、今回だからってことじゃないかもですが。


でも、1部で「体温を分かち合う」ことができると知った二振りが、視線を合わせずに歌うと意味深に感じてしまう。

そこにいて、視線を合わせなくても、相手の呼吸を感じることができる。

だからわざわざ視線を合わせる必要がないってこと?

と思ったら、歌詞と歌声の美しさ力強さとあわせてジーンと来ました。

 

ちなみに、私が見に行った日、Impulseの曲が終わった瞬間、

観客席からうめき声みたいの漏れちゃってる審神者がいました。笑。

気持わかる…。これ最推しだったら私もそんな感じになってたと思う。

 

 

刀剣乱舞

アカペラが歌もだけど、歌詞がやばかった。

(村正)

迷い込む無窮の狭間に

咲く華があるなら

蜻蛉切

いざゆかん、門を開けろ

俺も村正だ

いざ覚悟

 

最後の最後まで審神者を言葉で殴ることをやめない刀ミュさん、大好きです。

 

村正の華のような優雅な歌声も良いし、

蜻蛉切の村正を独りにしないという気迫、最高。

もーこのアカペラだけで1部要約できてしまっているじゃないですか。最高。

最高すぎました。

 

 

 

 

 

村正双騎、生でみられたこと、絶対忘れないと思います。

夢みたいな刹那を、本当にありがとうございました!