のにあるLABO

「花は野にあるように」な生き方の探求所

この記事をシェアする

妄想の話 春風桃李巵は鶴丸国永にとっては救いの話だったのかもしれない

2020年9月16日追記あり

※『ミュージカル刀剣乱舞 春風桃李巵』、『静かの海のパライソ』『江水散花雪』のネタバレを含みます。

ご注意ください。

 

 

 

 

春風桃李巵、千秋楽本当にお疲れさまでした。

初日からすごい完成度だと思ってましたが、千秋楽は表現力が増して本当に素晴らしかったです。

 

ディレイの期限が切れてしまって、納得行くまで見られなかったのですが、

感想を書き留めておきたいと思います。

いや、感想というか、後半は妄想の話です。

後半は伊達双騎を見て、勝手にこうだったんじゃないかと考えた私の妄想のお話になります。

 

 

まずは感想。

 

一番印象が違ったのは、

二回目の不立文字から秀吉と謁見した政宗を見つめる場面までの大倶利伽羅でした。

 

初日公演を観た時、二回目の不立文字の大倶利伽羅は、

伊達成実を演じるように言われて、

最初無反応で微動だにせず、しかし勝手に始まってしまったお芝居に、唐突に成実の役に入る…

という感じで、どちらかというとコメディのシーンに見えていました。

 

千秋楽も同じようにコメディタッチに見えるんですけど、

この時の大倶利伽羅の感情は、

その後の秀吉と謁見した政宗が、秀吉の首を狙えるシーンで刀を納めてしまった時までずっと続いてるんですね。

それが、千秋楽で観て、ごく自然に理解できました。

 

あの時、悔しさを押し殺して刀を引いた政宗に、

倶利伽羅は「なぜ戦わない」と憤る。

不立文字からこの時まで、大倶利伽羅の感情が途切れていないというのが、

千秋楽はすごくわかりやすかったです。

 

つまり、不立文字の時の大倶利伽羅は、

伊達成実ではなく、

おそらく大倶利伽羅本人の言葉であり、意思だったんだろうなと。

 

伊達成実を演じるまでもなく、

「戦うべき」という感情が大倶利伽羅の中にあった。

それはきっと大倶利伽羅が顕現した時から、

伊達政宗が天下を取れなかったことが

悔しさとしてずっと心の底にあったのだろうと思います。

だから、この時目の前で始まった不立文字に、ただ自分の本心をぶつけただけに過ぎなかった。

 

秀吉に屈した政宗へ「なぜ」と訴えかける大倶利伽羅の歌を聞いていたら、

頭で理解するより、ああそうかと胸にすとんと

倶利伽羅の感情が入ってきたような気がしました。

 

 

刀剣乱舞の魅力的だなと思うところは、

主に対して、刀剣達がそれぞれ様々な感情を抱いているところです。

 

倶利伽羅が伊達家に下賜されたのは、

大阪夏の陣も終わり、既に太平の世の中だったはずなので、

この舞台では、大倶利伽羅政宗を酒を飲んでばかりだったと評していることからも、

不甲斐ない主だと思っていたのでしょう。

 

同時に、

もっと早く生まれていたら、天下を取った男だったかもしれない。

なぜ、最後まで戦わなかったのか。

と、悔しさ、歯がゆさを覚えていたのだろうというのが、このシーンからわかります。

そして、悔しいのは、認めていたから。

認めてなかったら、最初から、この男なら天下取れたかもなんて思わないでしょうしね。

倶利伽羅なりに政宗のことを主と認めて、思っていたんだろうなとわかるシーンでもありました。

 

 

だから、

最後に「七種を一葉に寄せて摘む根芹」という政宗に贈られた歌を詠む大倶利伽羅には、

政宗があの頃抱いていた大志が、きちんと伝わっている。

最初の「酒ばかり飲んでいた」とそれしか知らなかった大倶利伽羅と、最後の大倶利伽羅はたしかに違う。

残された歌が、大倶利伽羅の心を埋めた。

すごくじんわり染みる物語の終わり方でした。

 

 

 

 

 

 

 

ここからは妄想の話です。

ゆめか、うつつか、でいったら140%夢しかない話です。

 

じゃあやっぱり春風桃李巵は大倶利伽羅の成長物語なのかというと、

ディレイでもう一度じっくり千秋楽を観て、

もしやそれだけじゃないのかもと思いました。

この春風桃李巵は、ひょっとすると鶴丸国永にとっては救いの物語だったのかもしれない、と。

 

 

何度も見ても、鶴さんの冒頭はやっぱり理不尽ですよね。

なぜ顕現したばかりの大倶利伽羅をいきなり殴るのか…。

演出で本当は紆余曲折あるのを、一足飛びに飛ばしてこのシーンだけを見せているのかなと思っていたのですが、

どうやら違うようだと2回目を再生して気づきました。

 

 

まず最初の鶴さんの歌。

「たづたづと」「今はひとやすみ」など、

歌詞が物悲しいんですよね。

なにか悲しい出来事があったのかなと感じさせます。

 

そして顕現したばかりの大倶利伽羅に行われる一方的なDV。笑。

「教えてやる、この感情が『悔しさ』」

倶利伽羅に負の感情を教えるこの時の鶴さんは、鬼気迫る表情をしてます。

まるで自分自身がその激情に焼かれているみたいに。

 

その後に、落とし穴を掘る鶴さんも、ちっとも楽しそうじゃありません。

どちらかというと、日常に戻るためにいつもと同じことをしようとしている。

でも気持ちは全然楽しくない。

そんな風に見えます。

 

さらにその次、出陣の要請で

主に「先の出陣から戻ったばかりなのにすみません」というようなことを語りかけられ、

鶴さんが答えたのが「むしろ助かる」。

 

「助かる」?

これ、よく考えると不思議な回答ですよね。

連続で出陣できる方が助かる状況ってどんな状況でしょうか。

ぱっと連想するのは、本丸にいたくない。

なにかに没頭して、思考しないで済むようになりたい。

 

つまり、「先の任務」で鶴さんは自分自身が憤りや悔しさを感じた。

そして、今も感じている…

のではないでしょうか。

 

それを裏付けるのが、物語のラストの主との対面。

話が終わって去り際に鶴さんが、おもむろに主に言います。

「ありがとな」

そして

「俺もいい面構えになっただろ」

とも。

 

出陣前の鶴さんはあまりいい面構えじゃなかったということ。

そして、この出陣をさせてくれた主に対してお礼を言う理由がなにかある。

 

そこで話を振り返って、理由を探してみました。

 

鶴さんはこの物語の中で、何度も何度も言い続けている言葉があります。

「時間は埋められない」

ってやつです。

 

訴える先は大倶利伽羅に対してですが、

でもじゃあ、なんでそんなことを顕現したばかりの大倶利伽羅に言うんでしょうか。

冷静に考えたら意地悪ですよね。

まだ生まれたてのレベル1の仲間にわざわざ言うことじゃない。

それが「この物語のテーマだから」と言ってしまえばその通りなんですけども、

でも他の誰でもなく、鶴さんが言うことに意味があるとしたら、それはなんでしょう。

 

私にはこのセリフ、鶴さんが自分自身にかけ続けようとしている呪いに聞こえます。

自分自身が「時間は埋められない」と思い知る過去があったのではないか。

そう考えた時、浮かぶのは任務の失敗。

出陣先の時代が放棄された可能性。

あるいは一緒に出陣した仲間が「折れた」可能性です。

それも鶴さんが無力感を感じるような出来事だったのではないでしょうか。

 

任務に失敗し出陣先が放棄された場合、

主との会話から、あまり「失敗」した印象を受けないのと、

この場合、理不尽というか八つ当たりに近くなるので、

倶利伽羅に厳しい理由としては、可能性は薄そうです。

失敗ではなく、パライソのような辛い任務であった場合も同様です。

それにパライソレベルの過酷な任務だった場合、連チャンで主が任務に行かせるかと考えると、それも不自然です。

 

誰かが「折れた」場合、

江水で、ミュ本丸にかつて折れた刀剣があったというのが明らかになっていますが、

本丸内でそう何本も折れているとは考えづらいため、

山姥切が隊長をしていた時に折れた、その刀だった可能性があります。

 

ただ、この部分は別の考察も出来ます。

山姥切が失った誰かの話はミュ本丸の中でも、相当昔の話(阿津賀志山異聞より前)という印象です。

そして、春風桃李巵のすぐ後に三百年の子守唄、パライソ、江水が立て続けに起こったと考えると、

春風桃李巵の直前の任務で折れた刀が、山姥切が隊長時に折れた刀と同一とはちょっと考えにくい。

 

ということは、別の刀だった可能性がある。

鶴さんの態度が自然だと考えるなら、

その折れた刀はもしかするともう一振りの『大倶利伽羅』だった可能性がないでしょうか。

 

例えば別の刀が、鶴さんの力足らずで折れてしまったとして、

その直後に顕現してきた大倶利伽羅に、旧知の仲だからといって、こんなスパルタを強いるでしょうか。

でもそれが同じ『大倶利伽羅』だったとしたら、

自分の中に渦巻く感情をぶつけてしまったとしても、不自然ではない気がします。

 

刀ミュは、実際牧島くんの大倶利伽羅は二振り目ではあるので、

なにか関連があったり…しないかな。

 

 

 

 

 

ともかく、鶴さんが、一つ前の任務でなにか心乱れることが起きていて、

心に影を落とした状態になっている。

この点はこれまで上げた言動から、どうやら正しそうと判断できます。

 

 

そして、物語の中、

鶴さんとは対象的に、大倶利伽羅は何度も

「埋めてやる」と言い続けます。

 

一度1人で闘って、無様に負けた。

それに対して「人は独りでは生きられない」を政宗を通して見てきた鶴さんは激高する。

「お前はその眼で何を見てきた」と。

 

 

それでも大倶利伽羅は「協力し合おう」ではなく、

「不十分は承知している。それでも、やらせてくれ」と、

2回目の戦いで貫いたのが実に大倶利伽羅らしかったですね。

そして、実際に勝ってみせた。

 

この直後に鶴さんが負傷し、

倶利伽羅が怒りを原動力に格上の敵に独りで勝利する。

 

この時、大倶利伽羅が仲間のために戦うという変化を見せた裏側で、

鶴さんもまた、命を預けてもらえないならこちらが預けてしまえと、

倶利伽羅に歩み寄るように変化したと考えることはできないだろうか。

その変化があったから、大倶利伽羅は仲間のために戦い、勝利を収めることができた。

 

ただ「助け合う」「共闘する」というわかりやすい協力ではなく、

倶利伽羅は「誰かのために戦う」ことで

鶴丸国永は「命を預ける」ことで

「人は独りでは生きられない」ことへの、この二振りなりの答えを見つけた。

それは心に影を落とした状態の鶴さんには、救いだったんじゃないでしょうか。

 

主への「ありがとな」の理由はこれじゃないか、というのが私の妄想です。

 

 

そして、馴れ合いすぎず、でも信頼を築いたこの二人だからこそ、

パライソがああなったんだなと思うと胸がいっぱいになりました。

(いや、解釈があっているかもわからない妄想なんですけども)

 

 

 

ラストで、

二人で稽古をして、鶴さんが自分で掘った穴に落ちたシーン。

あのシーンがこの二人の答えを象徴していたように思ってます。

 

鶴さんは自分で掘った穴に落ち
(自分自身の悔しさ、怒り、などの葛藤の中にある状態)

それを大倶利伽羅が引き上げる
(大倶利伽羅との出陣が葛藤からの開放に繋がる)

鶴さんが「この落とし穴どうしよう」と聞くと大倶利伽羅は「自分で埋めろ」と答える

(「時間は埋められない」と言い続けた鶴さんへの大倶利伽羅の答え)

 

 

それと同時に、

鶴さんのほうが「埋められない」ことにこだわり続けていて、

むしろ自分で穴を掘っていたのを、

例えば大倶利伽羅に歩み寄ることで、

例えば受取り手が知ろうと思うなら、残った文からその人となりを知ることができる(時間の流れを埋めることができる)ように、

自分自身の心の持ちようで埋めることができる、という

物語の回答であるとも読めました。

 

 

深い。

深すぎるし、全部が確信や根拠がない、

ふんわりした言葉の端をつなぎ合わせているので、本当に妄想です。

 

 

でも、春風桃李巵の鶴さんは本当に苦しそうで、

その鶴さんにとって、

春風は鶴さんの苦しみに対して最適解を示してくれる大倶利伽羅と出会えた、

救いの話だったんじゃないかな、救いだったらいいなと思ったのでした。

 

 

少なくとも、パライソに挑んだ鶴さんが、

この時の苦しさを抱えたままの鶴さんではなくて、

苦しみに対して最適解を示した大倶利伽羅がいる鶴さんでよかったなと思います。

 

 

 

 

以上、行間に作文をつっこむタイプのオタクの考える妄想でした。

 

 

チケット取れなかったので、ぜひとも再演をしていただきたいです。

 

 

 

2020年9月16日追記

ふと思い出して、伊達政宗が原田左馬介宗時への追悼歌を詠い

「あんたはなぜ歌うんだ」と鶴丸が聞くシーン。

あれは、鶴丸もまた、誰かを失ったということを表していたんだなと後から気づきました。

あの時の政宗鶴丸のデュオは、

「今だけは月よ照らさないでくれ」という内容になっている。

政宗が部下を失ったように、鶴丸もまた、誰かを失っているというシーンなんですね。

 

この感想日記を書いて寝る時に、ふわっとあの時の歌が思い出されて、

そこでやっと理解できました(遅)

 

「おまえはなぜ歌わない」と聞いた政宗の方ばかり興味を引かれていたのですが、

「あんたはなぜ歌うんだ」と聞いた鶴丸にも意味があったんですね。

大切な人を失って、でも鶴丸には歌を詠む発想はなかった。

ただ無力感、怒り、悔しさ、悲しみ、そういう荒ぶる感情を必死に消化しようとした自分とは対象的に、

同じ状況で静かに歌を詠んだ政宗への問いとしては、とても自然だったなと思いました。

 

鶴丸が、ミュの本丸が、誰かを失っているのは確定と考えて良さそうですね。

でもそれがまんばちゃんの失った誰かと同一人物なのかは、

今後の公演で明かされていくのを楽しみにしていきたいと思います。