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刀ミュ 双騎出陣~春風桃李巵~ 初日でこの完成度!

※内容についての春風桃李巵、静かの海のパライソのネタバレ含みます。

 

 

この公演、大倶利伽羅の牧島輝くんの歌が好きなので
チケットが取りたくて取りたくて取りたくて…
しかし数多の審神者達がチケット戦国時代にTwitterで討ち死にしていたように、
私も討ち死にでした。

 

全然チケット取れーん!

 

刀ミュのプレミアム会員で取れなかったの初めてでした。涙。

 

それでも配信で見せてくれるので、本当にいい時代に生まれました。
いつもファンへの配慮をしてくれる刀ミュのプロデューサーさんにも感謝です。

 

 

 

 

というわけで、配信で初日のマチネを観ました。

歌が本当にすごかった。

初日とは思えないほど完成度が高くて素晴らしい公演でした。

最初のソロ、二人とも圧倒されました。

生で見た人は迫力すごかったんじゃないかな。

でも舞台のいいところは、初日が100%だったとしても、千秋楽には120%に進化しているところで。

ここから公演を重ねてどう練り上げられていくのか、千秋楽がものすごく楽しみです。

どうか全員無事に最終日まで走り抜けられますように。

 

 

 

以下印象にのことったところだけ感想。
初見1回見ただけなので、なにか記憶違い、間違いあったらごめんなさい。

 

 

副題が「春風桃李巵」とある通り、伊達政宗公の生涯のお話でした。

「春風桃李巵」が、正宗公の有名な「馬上少年過ぐ」の歌の最後の句だったとは全然知らずみちゃったんですが、それでも十分楽しめました。

 

SOGAの双騎出陣の大ファンとしては、ちょっと二振りの出番や山場が少なく感じて、あれ?と思ってしまいましたが、
二振りしか出陣してないけど、本公演のシリーズの1本の扱いだと思えば、とても完成度の高い作品でした。
SOGAはどちらかというとスピンオフまでいかないけれど、番外編のようなお話だったもんね。

 

全体的な内容から受け取るべきメッセージをまだ消化しきれてないのですが、

月蝕の夜のお話…というのは、なにかの暗喩なんでしょうか。

「月は裏側を見せない」と言っていた鶴さんが、最後に「それでも(月の)裏側は見えなかった」というのは三日月のことかなと一瞬思ったのですが、でも月蝕が起きたのは満月だったから、そういう意味じゃないよなと悶々と考えてしまった。

答えがわかる人いたら教えてほしいです。

 

 

政宗公の一番印象に残ったのは、
たくさんの歌を残した政宗公に
「あんたはなぜ歌うんだ」と問うた鶴さんに返したセリフ、

 

「おまえはなぜ歌わない?」

 

そうせずには生きられない人なんだということが端的に表されたセリフで、思わずにっこりしてしまいました。

戦国武将としての伊達政宗のイメージしか持ってなかった私に、この舞台でスポットライトを当てる政宗公の側面はここだよとわかりやすく示してくれた一言でした。

 

 

今回は政宗公と大倶利伽羅が重ねて描かれていたように思います。

 

うろ覚えですが、最初の虎哉宗乙の説法を聞いて、

「人に頼るなと言いながら、人と力を合わせろというのか」みたいなことを鶴さんが言うシーンがありましたが、
幼い伊達政宗がそうだったように、
生まれたての大倶利伽羅もそれがわかっていなかった。

刀には戦うことしか選択肢がないから、人の身ではそれ以外の選択肢が生まれるってことを、顕現したばかりの大倶利伽羅は本当によくわからなかったんだろうな。

最初に幼い政宗公に手を出せと言われて戸惑っていた大倶利伽羅が、
最後には、穴に落ちた鶴さんに自分から手を差し伸べるようになったシーンは、ちょっとじーんとしてしまいました。

 

もう一つ、

もっと早く生まれてきていたらと願っても、流れた時間の差は埋めることはできない。
そのどうしようもない悔しさの部分も、政宗公と大倶利伽羅は重ねて描かれてました。

 

政宗公の野望は最後まで叶わなかったけど、でも残るものは確かにある。

それを理解した最後の大倶利伽羅の穏やかな雰囲気は、もうミュ本丸の、いつもの大倶利伽羅でした。

 

戦うことだけが力じゃない。
人は手を取り合うことができる。


倶利伽羅にとっては一番理解に苦しむ部分を、
最初の任務で体得できたからこそ、
三白年の子守唄の情深い大倶利伽羅に繋がって、
今のミュの、どこか雰囲気の柔らかい大倶利伽羅が生まれたのかなと納得するとともに、
ここで得た情緒と築いた絆が、パライソで鶴さんを支えたんだなと…。

 

たぶん本来の大倶利伽羅の性質である「俺一人で十分だ」なだけの大倶利伽羅だったら、パライソの鶴さんはきっと最後まで立っていられなかっただろうなと思います。

 

鶴さんの怒りや苦しさ、島原の民の苦しさ、全部わかるようになっていた大倶利伽羅だったからこそ、鶴さんは3万7千人を死に向かわせる任務を最後までやり遂げられたんじゃなかろうか。

鶴さんは一人で背負うつもりだったとしても、大倶利伽羅は一緒に背負うつもりだっただろうし、隣にそんな伽羅坊がいたことは、鶴さんにとってはものすごく大きかったことでしょう。

そう思うと、この春風桃李巵はパライソにも奥行きを与えてくれる作品でした。

 

 

 

 

ところで、ミュの鶴丸国永について語っていいですか。


ちょっと、あの……ミュの鶴さん、あまりにも魅力的すぎんか!?

 

この舞台、最初がクライマックスに私の好みのシーンでした。

倶利伽羅が顕現し、直後鶴さんがいきなり大倶利伽羅を殴って攻撃し始めてたとこ。

 

そこから反撃しつつも鶴さんに全く歯が立たない大倶利伽羅Lv.1に、

それが苛立ちだ。
それが怒りだ。

と鶴さんが教えたのがあまりにも衝撃的で。

 

最初の衝撃は、

鶴さん自身が、何かにボロボロに破れた経験があって、
その時に鶴さんに湧き上がった感情が「苛立ち」「怒り」をだった経験があるからこそ、
こんな教え方をしたはずで。

鶴さんは最初から強くて、いつも飄々としているという勝手な思い込みを、このシーンが完膚なきまでに叩き壊してくれました。

 

 

それからじわじわと思い出されてきたのはパライソの鶴さんでした。

 

そうだった。パライソの鶴さんはこういうやつだった!と。

 

 

鶴さんは陽気で泰然自若に描かれることが多いですが、
パライソの鶴さんはずっと深い怒りと苛立ちを抱えていました。

仲間が傷つくことすら、任務のために平然と推し進め、
かと思えば、任務のために感情を完全に押し殺すわけでもなく、
腹の中にくすぶった怒りを、茂助に向けて解き放っていました。

茂助に吐いた毒のような言葉が、
情に流されて使命を見失いそうになって迷う優しさだとか、
かっこよくあろうとか、美しく生きようとか、
そういう刀剣男士達のあり方とは掛け離れていて、
それが歴史だと嘆くでもなく、綺麗事にせず、諦観するでもなく、
自分が抱えた怒りを怒りとして受けとめ、自分を焼き尽くしそうな激情を消そうとはしなかった。

ものすごくリアルな生身の激情を抱えた鶴さんは荒ぶる神のようでもあり、どうしようもなく人間くさくもありました。

 

歴史に散ったものを愛して照らそうとするのが三日月宗近なら、
歴史にすらならない無辜の民草の側から世界を見、彼らを救いたいと思う心を抱えながら、それでも任務を遂行し続けるのが鶴丸国永なのかなと。

だから、ミュの鶴さんの中には、常に怒りの炎があるんじゃないかと。

 

 

それが、生まれたばかりの大倶利伽羅に教えるくらい、鶴さんにとっては根源の感情なのかと思うと、苦しい。

でも、だからこそ、ミュ本丸の中での鶴丸国永という刀は、
いい意味でも悪い意味でも、最も人間くさくて、それがものすごく魅力的に見えたのでした。

 

そういえば、春風桃李巵の中でも、
片倉小十郎の妻になりきったり、伊達政宗が何をその目に映したのかを知りたがったり、愛姫の歌の部分を代わりに歌ったりと、その人の立場でものを見るということに積極的に感じるシーンが随所にあったのは偶然なのかどうなのか。

 

 

 

光が明るいからこそ影が濃くなる。

陽気に振る舞っているから一見優しそうに見えるけど、その実とても厳しい刀。
言葉ではなく、自分自身に経験させて理解させるタイプ。
それも結構スパルタなやり方で。

推し刀ではないし、好きとかの感情とはまた別に、
パライソでもこの春風桃李巵でも、
陰影が見え隠れするときのぞっとするほど厳しい表情に、感情を否応なく揺さぶられる、すごく魅力的なキャラクターだなと改めて思ったのでした。

 

これからのミュの、三日月が成そうとしているなにかに鶴さんがどう絡んでいくのか、恐いけれど楽しみです。

 

でもまずは春風桃李巵千秋楽、楽しみにしてます!!!