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『ウィキッド』映画版考察 グリンダはなぜエルファバと一緒に行かなかったのか?

ウィキッド 二人の魔女』を観てきました。

10年以上前、たぶん、最初に観たのは濱田めぐみさんのエルファバだったと思いますが、その時衝撃を受けて以降、ずっと大好きな作品でした。

その作品を、愛と敬意をもって映画にしてくれて本当にありがとう。

まだ続編がどうなるかわかりませんが、まずは前編については、本当にこれをまず言いたかった。

 

 

以下、後編の内容も含むネタバレですので、ご注意ください。

 

 

 

 

劇団四季の舞台を2回観たことがあるのですが、もう10年くらい前なので、
(お願いだから、もっと再演してください!!行きたいのにチケット即完売して取れないのは本当に悲しい)
うろ覚えな部分が結構あったのと、おそらく映画(字幕)版の演出によって印象が違った部分などがありました。

 

一番印象が違ったのがグリンダが最後に、エルファバと一緒に行かなかったシーン。

舞台でここに違和感を覚えたことは記憶に残ってないんですが、
映画版では「どうして一緒にいかなかったんだろう」と少し引っかかりを感じました。

今回はそのあたりの、考察とも言えない自分の考えを書いてみたいと思います。

 

 

 

 

先に感想をちょっとだけ

感謝をこめて先に感想書かせてください。

細かいところで、ものすごーく作り込まれてて、そこが作品愛を感じさせてまず感動でした。

壁画が崩れると動物先生たちの絵がでてくるとか、

最初に虹がかかってるとか、

黄色いレンガ道とか、

他にも気づかない箇所がもりもりありそうだったけど、とにかく「オズの魔法使い」と「ウィキッド」を愛してる人たちが作ってるんだなーと感じて、観ていて心地よかったです。

 

そして、シンシアとアリアナ、最高…。

歌が後入れじゃなくて、実際にそのまま歌ってる歌声だって聞いてひぇってなりました。

最後とか、空中であの状態で歌ってるってこと???

どんだけ筋力あるねん。うますぎるやろ…

あとどうやったらその歌声収録できたん?マイクどうなってるん?

っていうのも感動してましたw

 

シンシアのエルファバは、最初から美しかったのが印象的でした。

なんとなく、舞台だと最初のエルファバは、すごく根暗で神経質なイメージがあったんですが、
シンシアのエルファバはシス大学にやってきたときから、立ち姿が美しくて、神経質ながらも芯があり、根底には知性と品がある女性なんだというオーラがすごかった。

だから最初からエルファバかっこいいな~と思って観てました。

あとダンスシーンのダンスが、むちゃくちゃかっこよかったです…

表情とかは、舞台では観られない映画ならではのシーンで、エルファバの孤独と心の傷と、そして高潔さを改めて感じて本当にすごいシーンだった。感情移入しすぎてめちゃくちゃつらいシーンなんだけど、でもとても良かった。

感情的には泣きながら観てたんですが、一方で、ダンスが美しくて…

このシーン、エルファバの悲しみをみせるシーンだと思っていたのですが、今回映画を見て、このダンスはエルファバのどれだけ孤独でも傷ついても、心に持ち続けている誇りを示すシーンでもあったんだと気づいて、鳥肌立ちました。素晴らしかった。

 

そんでグリンダ。

私はグリンダ推しなんですけど、アリアナ・グランデのグリンダは本当にマジで、私の理想のグリンダでした…。

仕草とか表情、メイクとか、喋り方、美しいハイソプラノ…あれ?グリンダって現実にいた???って途中から頭バグってきてましたw

ちなみに、映画の冒頭から私号泣してましたww

あのラストが最初にくるの、初見ではグリンダの心情に気づけないようになっているのが、ウィキッドのずるいところですよね。

初見の方は、後編を見てから、もう一度前編の冒頭シーンを見てほしいです。

 

 

 

グリンダはなぜ一緒にいかなかったのか

さて本題です。

 

英語版と日本語版の歌詞の違い

エルファバが最後に「一緒に来て」と言って「二人一緒なら勝てない戦いなんてない」と一緒に歌う。

なのに、グリンダは「あなたの幸せを祈ってる」といって、
エルファバを独りで行かせる…

ここがちょっと唐突に感じて「え、この流れで断るの?」とちょっとびっくりしました。

 

舞台を観たのが10年以上前なので、舞台版とどこが違うかわからなかったんですが、
舞台を見てたときは違和感感じなかったんですよ、ここ。

日本語版の歌詞が違うからかもしれないと思って、日本語版歌詞を見てみました。

 

英語版

(エルファバ)If we work in tandem
(二人)There's no fight we cannot win
Just you and I Defying gravity
With you and I Defying gravity

(エルファバ)They'll never bring us down!
Well? Are you coming?
(グリンダ)I hope you're happy
Now that you're choosing this

(エルファバ)You too
I hope it brings you bliss

 

日本語版(劇団四季の歌詞です。吹替版と同じかわかりません)

(エルファバ)あなたとなら

(二人)負けはしないわ

誰にも止められない

自由を取り戻すの

(エルファバ)できるはずよ

一緒に来てくれないの?

(グリンダ)後悔はしてないのね

(エルファバ)あなたこそこれでいいのね

 

だいぶニュアンス違って感じますね。

日本語版は、一緒なら無敵だって歌った後に、グリンダは、でも「後悔してないのね」と聞くんですよね。

これによってグリンダがエルファバとは別の選択をしたのだとはっきりわかります。

 

英語版は「あなたの幸せを願ってる」になってます。

英語圏の方の感じ方はちがうのかもですが、
英語のニュアンスが分からない私からすると、一瞬前まで「あなたと私、重力に逆らって」と歌っていたのに、あっさりとエルファバを突き放しているような、唐突感を感じました。

 

たぶんこれによって映画で「え、この流れでなんで「あなたの幸せを願ってる」って決別するの?」って感じたのだと思います。

 

とはいえ、よくよく考えると
「I hope you're happy」は、「後悔はないのね」よりももっと強く、
「行かない」という選択をしたグリンダの確固とした意志を示している言葉ですよね。

そして、同時に、エルファバへの深い友情を示している。

歌詞の選び方としては、たしかにこれ以上ないものなのかもしれません。

 

 

そういうわけで、日本語版歌詞を見てから、もう一度英語版歌詞を見ることで、
唐突に感じた部分については腑に落ちたのでした。

 

 

なぜ行かなかったのか

とはいえ、一回疑問に感じたことだったので、もう少し掘り下げて考えてみました。

 

グリンダは、エルファバと一緒に行くこともできた。

だけど行かなかった。

 

このときのグリンダの考えを深く考えたことがなかったかもしれないと、映画で気づかされました。

 

舞台で見たときは、国に反旗を翻すなんて、学生が二人でやってもそんなの破綻するに決まってる。

きっとそういう直感的な理由でグリンダは行かなかったんだろうと、ふんわりとした理解でいました。

 

でも、改めて考えてみると、グリンダはグリンダで、きちんと「行かない」という選択を自分の強い意志に基づいてしているんじゃないかと思ったんです。

 

そもそもグリンダは「善人」でいる自分が大好きで、それが行動指針だし、
そういう自分だから「人気者」になるのが当然だし、
それが人の価値だと思っている。

 

でも善悪って本来は明確な線引はないことです。

グリンダの考える善は、民主的な善です。

コミュニティの多くが考えている「善いこと」に沿っていれば、それが「善」だと思っている。

そしてその考えは悲しいことに、概ねあってる。

正しいと認めたくないけど、そこを外れれば「善」ではないと思われてしまうのが今の世の中です。

 

だから、陛下に楯突いて、グリムリーを奪って逃げたエルファバを必死で説得しようとした。

グリンダにとって、動物に酷いことをすることは、国がそうしているなら仕方ないことで、そんなことで癇癪起こして、国に楯突くなんてエルフィーってばどうかしてる、と思っているわけです。

 

リアルで考えてみると、このグリンダの考え方は別におかしいものでもなんでもなくて、

国王が平和を維持するために仕方なく打った政策が、例えば1つの人種の弾圧とかだったとして、弾圧するのが当然の世の中に生まれてきた人が、その考えをおかしいと気づくのは、余程視野が広い人間でない限り難しいことです。

 

シス大学の動物先生の壁画が人間に置き換わっていたり、
動物先生の紹介のときには拍手がほとんどされなかったり、
グリンダ自身も、ディラモンド教授が自分の名前を発音できないのを授業中に指摘するような、動物達という種の違いに不理解で、非常に浅はかだったりしている。

グリンダはいいところのお嬢さんで、おそらく動物と接点なく育って来て、且つ、世の中も動物を蔑視していて、大勢の人間たちがそれを「是」としている。

だから動物たちがどんな扱いを受けていても、世間がそうならそういうものなんだろうと、なんとも思っていない。

グリンダは、そもそも考えが浅い人物なので、エルファバに孤独があったように、動物たちが迫害されれば、動物たちもエルファバと同じ孤独に突き落とすかもとか、そういうことを深く考えられない、思考停止状態なわけです。

 

そこまで掘り下げて考えてから、
もう一度Defying Gravityのシーンに戻ってみます。

「 Are you coming?」


「I hope you're happy」

と返したグリンダの選択。

 

観客視点では、エルファバの方に感情移入しやすく、彼女の行動のほうが正しいように感じます。

 

でもグリンダの視点で見直すと、このシーンは全く違う。

 

エルファバはグリムリーを盗んで、陛下とモリブルに反逆してしまった。

これは大勢からすれば反逆罪です。

オバカだし、やり方には問題しかないけれど、グリンダはグリンダなりに、真剣に他者に「善い人」であろうとしてきた。
シスで魔法を学んで、人のために使いたいと本気で考えて、初日からモリブルに突撃するほど決意に燃えていた。

 

だからこそ、嫌味であげた帽子なんかのお礼に、魔法学へのチャンスを作ってくれたエルファバに、スターダストであんなにも突き動かされた。

 

きっと「一緒に来て」と言う、震えているエルファバの手を取って上げたかったはず、でも、グリンダからすればエルファバのやろうとしていることは「善」ではない、「やってはいけないこと」。

 

 

本当にただのオバカなら、ここで大好きなエルファバに流されて、あるいは情から、一緒に行っちゃう可能性もあった。

でも、グリンダはグリンダで、自分の中に「善」があった。

それはこの時、エルファバの中で、しっかりと形を得た「善」とは真逆のものだったというだけ。

「善」から親友が道を踏み外した。

彼女の決意は固く、説得もどうやら聞いてもらえないと悟る。

だけど、この時彼女の口からでてきたのは

「I hope you're happy」なんですよ…。

これって愛でしかないと思う。

(もう、やばい…また泣きそう…)

 

 

グリンダの決断の理由を私はこう解釈したのでした。

あくまで私の考えですけども。

 

 

でも、こう考えたらますますグリンダが好きになったし、
Defying gravityを歌ったときの二人が、愛おしくて、より切なくなりました。

 

同時に、ウィキッドの奥深さにも改めて気づいて、唸りました。

 

観客は

グリンダを「なんだこいつ」と思いがちじゃないですか。

傲慢で、自分勝手で、相手を決めつけて「親切」を押し付けてくるし、「善い人」を演じながら(本人は演じているつもりがないのがまたタチ悪いですよねw)エルファバが孤立する原因に自分がなっていることにも、恐らく気づけていない愚かさ。

 

けど、善悪の線引を明確にはできないということを、
ウィキッドはオズで「悪」と言われるエルファバが「悪」でないと観客に示すことで教えてくれるけど、
それは翻って、観客からはグリンダが「善」でないように見えるけど、それは観客側の線引きでしかない、ってことをも内包している。

 

グリンダにはグリンダの「善」がある。
それがオズという世界の外側(私達の世界)に通用しなくても。

 

グリンダはグリンダの中の「善」、彼女の夢、そういったもののために必死に生きていて、DefyingGravityのシーンで、彼女はそれを貫くことを選択しているんですね。

 

 

余談

本当に余談ですが、若い頃に舞台を見たときは気づいてなくて、
今回気づいたことがあったので、つらつら書いてみます。

まあ、これも感想です。

 

最後の勝者

若い頃は、ハッピーエンドかどうかという視点でばかり物語を観ていたので

戦に負けてでも幸せを掴んだのがエルファバ、

勝負に勝っても、孤独を抱えることになったのはグリンダ、

という見方をしてました。

 

それも間違ってはないと今も思ってますが、

この話って、最終的にはどちらかといえばグリンダのやり方が、国を変えることに大きく貢献してますよね、確か。

つまり、グリンダのほうが、結果論で言うなら正しかったのかも、ってオチになっている。

北風と太陽みたいに、「人気者」であることって、強力な武器を持ったレジスタンスより時には力を持つのかもしれない。

そういう示唆もあるのかもって、この年になって観て気づきました。

 

 

とはいえ、グリンダが成功を収めるには、
エルファバが「悪」として立ち、国が共通の敵を動物からエルファバにターゲットを切り替えたことも大きく影響していて、
そして、エルファバを変えたのは間違いなくグリンダです。
そして、挫折知らずで浅はかだったグリンダが変わるきっかけになるのもエルファバです。

 

そう考えれば、二人は別々の場所で生きることで
二人の力で国を変えたという見方もできる。

まさに「There's no fight we cannot win」だったということ。

胸熱すぎる…。

 

 

最後にもうひとつ。

理解し合えなくても、友情は築ける

他者に歩み寄るには理解や、寛容が必要だと思いがちですけど、
エルファバとグリンダが親友になったのは「偶然」の重なりでしかありません。

嫌い合っていた二人は、ちょっとした誤解から、友情を築くキッカケを得た。

でも友情を築いても、この二人は真反対のままです。

グリンダが動物に理解を深めたかといえばそうじゃないし、
エルファバがパリピ系の学生になったわけでもない。

お互いに相容れない部分はそのままに、ただ相手への「嫌い」が「好き」に転換した結果、お互いの違いを受け入れられるようになった。

ウィキッドは人種差別をテーマにしているのは理解してたつもりですが、エルファバたちに感情移入しながら、友情を築くのを疑似体験して、自分と人種が違うから拒絶したり、逆に無理に理解しようとしてできないことに悩んだりしなくても、笑い合うことはできるんだなってことを体験できたように感じました。

 

若かったときは深く考えずに、圧倒されて、本能的にこの作品の奥深さに惹かれてました。

噛めば噛むほど素晴らしい作品からこそ、大人になって気づけたことがたくさんあって、ウィキッドに出会えて良かったと、心の底から思ったのでした。